เข้าสู่ระบบ沼の水面から目を離したとき、私は自分がどれほど長くそこに立ち尽くしていたのか分からなかった。
空はすでに夕闇に沈みかけ、湿った風が頬を撫でている。背中に感じていたはずの視線は、いつの間にか消えていた。だが、それで安堵したかと言えば、そうではない。むしろ、何もいなくなったことの方が、強い不安を呼び起こした。
水面に映っていた顔が、まだ脳裏に残っている。
あれは、確かに私だった。
だが、同時に、私ではなかった。帰宅してからも、違和感は消えなかった。手を洗い、服を脱ぎ、机に向かう。その一連の動作が、誰かの指示に従って行われているような感覚。自分の身体が、ほんの少し遅れてついてくる。
記者としての習慣で、私はノートを開いた。今日見聞きしたことを、言葉に変換しようとしたのだ。文字にしてしまえば、曖昧な感覚は輪郭を持ち、制御できる――そう信じてきた。
だが、ページの余白に、すでに文字があった。
走り書きのメモ。
乱れた筆圧。 強調するように引かれた二重線。〈沼は見ている〉
〈町は忘れない〉自分の字だった。疑いようがない。
それなのに、書いた記憶がなかった。私は、ゆっくりとノートを閉じた。
否定することは、できなかった。その夜、眠れなかった。目を閉じると、沼の水面が浮かび、そこに映る顔が、微妙にずれて見える。口が動く。だが、音が聞こえない。代わりに、頭の奥で、誰かが囁く。
――確認しろ。
――確かめろ。何を、とは言われない。
それが、かえって恐ろしかった。翌朝、私は決断した。
精神科医にかかる。
その判断は、理性的なもののように思えた。連続殺人、妹の死、地元取材。客観的に見れば、心身に負荷がかかっていて当然だ。自分が壊れているかもしれない、という仮説を検証するのは、記者として自然な行動だった。町から少し離れた場所に、古い診療所があった。白い外壁はくすみ、看板の文字もところどころ剥げている。だが、妙に「長くそこにある」感じがした。
待合室には、私一人しかいなかった。
壁の時計の音が、やけに大きく響く。診察室に通されると、医師はすでに席に着いていた。私より少し年上だろうか。穏やかな顔立ちで、眼鏡の奥の視線は、観察というより受容に近い。
「今日は、どうされましたか」
私は、準備してきた説明を口にした。眠れないこと、集中力の低下、仕事のストレス、身内の死。言葉は淀みなく出てきた。何度も頭の中で繰り返した文章だからだ。
医師は、黙って頷きながら聞いていた。
「幻聴はありますか」
一瞬、迷った。
だが、ここで曖昧にすれば、何も始まらない。「声を、聞いたような気がすることはあります」
医師のペンが、止まった。
ほんの一瞬だが、確かに。「どんな声ですか」
「はっきりした言葉ではありません。呼ばれたような……確認しようとすると、消えてしまうのです」
沼の話はしなかった。
町の因習も、妹の違和感も。 それらを語った瞬間、すべてが妄想として整理されてしまう気がした。「自分の声に聞こえることは?」
その質問は、唐突だった。
だが、不思議と、核心を突かれた感じがした。「……分かりません」
私は、視線を逸らして答えた。
それが、嘘かどうか、自分でも判断できなかった。診察は淡々と進んだ。急性ストレス反応、軽度の解離症状、睡眠障害。医師は可能性を挙げるだけで、断定はしなかった。
「現実感が薄れることは?」
「あります」
街を歩いていて、突然、自分がそこにいないように感じる。音が遠のき、景色が平面になる。自分が、誰かの記録映像を見ているだけの存在のように思える。
「自分が、自分でないように感じる?」
私は、頷いた。
「それは、異常ではありません」
医師は、穏やかに言った。
「人は、耐えきれない情報や感情に直面すると、それを切り離すことがあります。あなたは、まだ現実と繋がっています」
切り離す、という言葉が、胸に残った。
診察の終わりに、簡単な心理検査を受けた。直感で答える質問。私は、正直に答えたつもりだった。
――記憶に抜け落ちがあると感じますか。
「はい」――自分の行動を思い出せないことがありますか。
少し迷ってから、「いいえ」。――自分の中に、複数の自分がいると感じたことはありますか。
私は、ペンを止め、「分からない」と書いた。医師は、それを見て、表情を変えなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
軽い睡眠導入剤が処方された。依存性は低い、と説明された。
診療所を出ると、空はどんよりと曇っていた。
沼のある方角に、低い雲が溜まっている。その夜、私は薬を飲み、久しぶりに深く眠った。
夢は、見なかった――はずだった。だが、目覚めたとき、喉がひどく痛んだ。
声を出し続けた後のような、鈍い痛み。枕元に、録音機が置かれていた。
私は、それを置いた記憶がない。
再生ボタンを押す指が、わずかに震えた。
流れてきた声は、低く、落ち着いていて、はっきりとしていた。「……町は、まだ覚えている」
続いて、紙をめくる音。
ペンで何かを書く音。そして、静かな独白。
「次は、沼だ」
私は、再生を止めた。
考える必要はなかった。なぜなら、その声は、
私が記事を書くときに使う声そのものだったからだ。知っている者は、もうほとんど残っていない。 その一文を書いてから、私は長い時間、何も書けずにいた。 ペン先が紙に触れるたび、かすかな音が耳につく。それだけが、この部屋にある現実だった。 知っている者が「残っていない」のなら、 では、消えた者はどこへ行ったのか。 私は、過去の記録を引っ張り出した。 取材ノート、音声データ、町史の写し。 そのどれにも、直接的な答えは書かれていない。 だが、共通点はあった。 消えた者たちは、皆、ある時期を境に「語られなくなる」。 死亡届が出ていない者もいる。転出記録だけが残り、その後の足取りが完全に途切れる者もいる。 町は、彼らを忘れたのではない。 最初から、覚えていなかったかのように振る舞っている。 私は、最初の一人を思い出した。 ――川村という男だ。 町の外から来た、臨時職員。 役場で短期間働き、住民の聞き取り調査をしていた。 彼は、沼に強い興味を示していた。 私は、彼と何度か話をしている。 記録によれば、彼はよく質問をした。 「なぜ、この町では事件が表に出ないのか」 「どうして、皆、同じ説明をするのか」 私は、答えている。 淡々と。 「そういう土地だから」と。 その数日後、川村は町を出た。 少なくとも、記録上はそうなっている。 だが、彼のアパートは、片付けられていなかった。 洗濯物も、食器も、そのままだった。 鍵も、郵便受けも、異常はない。 私は当時、それを「不可解な事件」として記録した。 今、読み返すと、違和感は別のところにある。 私は、探そうとしなかった。 次に思い出したのは、町の古老が語った話だ。 「昔な、気の強い女がいてな。 何でも口に出す人だった」 その女は、町のやり
否定する理由は、もう残っていなかった。 そう書いたあと、私はしばらくノートを閉じたまま、机に額をつけていた。 頭の中が静かだった。思考が止まっているというより、余計な音が消えた、という感覚に近い。 外では、風が吹いていた。 窓の隙間から、湿った匂いが流れ込んでくる。沼の匂いだと、私は即座に理解した。理解できること自体が、今となってはおかしい。 私は立ち上がり、妹の部屋へ向かった。 妹の部屋は、あの日からほとんど手を付けていない。警察が一通り調べ、必要なものだけを持ち出したあと、時間だけが堆積している空間だった。畳の色も、机の位置も、妹が最後にそこにいた時のままだ。 私は、引き出しを一つひとつ開けていった。 衣類、文房具、大学の資料。 どれも、よく知っているはずのものだったが、どこか他人の所有物のように感じられた。妹は、私の知っている妹だったのだろうか。あるいは、私が「知っていると思っていた妹」だっただけなのか。 机の一番下の引き出しは、固くなっていた。 少し力を入れると、ぎ、と嫌な音を立てて開いた。 中にあったのは、一冊のノートだった。 大学ノート。表紙に名前はない。だが、角が丸くなり、背表紙が少し裂けている。持ち歩かれていた痕跡が、はっきりと残っていた。 私は、その場に座り込み、ノートを開いた。 一ページ目。 〈兄が、変だ〉 文字は、妹のものだった。 見慣れた丸みのある字。少し癖のある「兄」の書き方。胸の奥が、鈍く痛んだ。 二ページ目。 〈町の人じゃない。 でも、町の人より、町のことを信じている〉 意味が、すぐには掴めなかった。 私は町の外で暮らしていた時間の方が長い。進学し、仕事をし、そして戻ってきただけだ。町の人間ではない、という自覚はある。 だが、「町の人より、町を信じている」とは、どういう意味だ。 ページをめくる。
私は、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。 書かなければならない、という衝動だけが先にあり、何を書くべきかは分からない。いや、分かっていないふりをしていただけかもしれない。 そのとき、携帯が震えた。 警察からだった。 妹の件で、改めて話を聞きたいという。加えて、連続殺人の捜査で、新たな証言が出たらしい。私の取材が、捜査の妨げになっていないか確認したい、とも。 第三者の視点。 それは今の私にとって、救いのように思えた。 警察署の取調室は、奇妙なほど明るかった。白い蛍光灯の下では、沼も、町も、因習も、すべてが現実味を失う。 担当の刑事は、淡々と話し始めた。 「あなたの妹さんの件ですが……」 事故として処理された経緯。現場の状況。改めて聞いても、新しい情報はない。だが、次の言葉で、私は身を固くした。 「当日、沼の近くで、あなたを見たという証言が出ています」 私は、ゆっくりと息を吐いた。 「……私ですか?」 「はい。夜遅くに、誰かと話していた、と」 刑事は、証言者の名前を告げた。 町の外れに住む、年配の女性だった。 私は、その女性を知っている。 妹が、よく話をしていた相手だ。 「証言者は言っています。あなたは落ち着いていて、慌てた様子はなかった、と」 それは、不思議と安心できる内容だった。 少なくとも、私は“被害者を見つけて狼狽する兄”ではなかった。 ――では、何をしていた? 警察を出たあと、私はその女性の家を訪ねた。 彼女は、私を見ると、少しだけ困ったように笑った。 「話しちゃって、ごめんなさいね。でも……黙ってるのも、違うと思って」 縁側に座り、彼女は語った。 「あなた、あの夜、妹さんと話してたでしょう」 私は、頷いた。 「ええ。少しだけ」 「少し、じゃなかったわよ」 彼女は、はっきりと言った。 「あなた、説得してた」 胸が、ざわついた。 「説得……?」 「ええ。町のこと、沼のこと。 “選ばれる”とか、“戻る”とか…… 難しい話を、静かに」 彼女は、続ける。 「妹さん、泣いてた。 でも、あなたは怒らなかった。 ただ……決めてる人の話し方だった」 決めている人。 その言葉が、耳に残った。 帰り道、私は自分に言い聞かせた。 それは、第三者の誤解だ。 記憶違い
〈次は、誰を返す〉 その一文を、私は何度も読み返した。 問いではない。 命令でもない。 だが、選択の余地がないことだけは、はっきりと分かる文章だった。 まるで、すでに答えが決まっていて、それを確認するためだけに書かれた言葉のようだ。 私は、椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。 頭の奥で、何かが軋むような音を立てている。 妹の死について、私はこれまで「分からなかった」という立場を取ってきた。 不可解な事故。 警察もそう結論づけた。 沼での転落。夜間。足を滑らせただけ。 だが、それは「説明として都合がいい」というだけの話だ。 本当に分からなかったのは、 なぜ妹が、あの夜、そこにいたのか。 なぜ、町を離れるはずだった彼女が、沼へ向かう道を選んだのか。 私は、資料の束を引き寄せた。 過去の失踪事件、沼入の記録、断片的な証言。 ある共通点が、はっきりと見えてきていた。 戻ってきた者。 完全には戻らなかった者。 そして、戻りかけた者。 町は、戻ってきた者を排除しない。 完全に馴染まなかったとしても、沈黙を守る限りは、許容する。 だが―― 「戻りかけた者」だけは、違った。 町の論理を理解しかけ、しかし拒否した者。 内側に入りかけて、境界を踏み越えなかった者。 そういう存在は、最も危険だった。 妹は、その条件に、あまりにも当てはまりすぎている。 彼女は、この町を嫌っていた。 だが、完全に切り捨てることもできなかった。 私が取材で戻ると言ったとき、妹は少し考えてから、同行を申し出た。 「最後に、ちゃんと見ておきたいから」 あのときの言葉の意味を、私は理解していなかった。 最後に、何を? ノートをめくると、妹との会話が断片的に書き留められている。 記者としての習慣だ。身内との雑談ですら、言葉にして残してしまう。 〈ここ、空気が重い〉 〈みんな、同じ話し方するよね〉 〈優しいけど、線を引いてる〉 そして、最後のページ。 〈私、ここにいると、昔の自分に戻りそうで怖い〉 その一文を読んだとき、胸が締め付けられた。 妹は、「戻る」ことを恐れていた。 町の論理に、飲み込まれることを。 私は、録音機を手に取った。 聞いた音声の続きが、まだ残っている。 再生ボタンを
私は、録音機の電源を切ったまま、しばらく動けずにいた。 机の上には、取材ノート、古新聞のコピー、町役場から借りた資料。それらが、まるで最初から配置されていたかのように整然と並んでいる。昨夜、自分がここで何をしていたのか、記憶は曖昧だった。 だが、机の引き出しを開けたとき、決定的な違和感があった。 町史編纂委員会――そう書かれた封筒が、そこに入っていた。 私は、その封筒を手に取った。 紙は新しい。最近使われたものだ。 だが、私には、それを受け取った記憶がなかった。 中身は、古い文書のコピーだった。 明治期のものらしい。墨書きの文字を、現代文に書き起こした注釈付きの資料だ。町役場の印もある。 〈沼入(ぬまいり)之儀〉 見出しを読んだ瞬間、胸の奥が冷えた。 沼入――それは、私が子供のころに聞いたことのある言葉だった。大人たちは決して詳しく語らなかったが、「昔の風習」「もうない話」として、時折、囁かれるように出てくる。 資料を読み進める。 内容は、簡潔だった。 町の秩序を乱す恐れのある者、血筋に問題のある者、共同体に害をなすと判断された者を、「水に返す」儀式についての記録。 処刑、という言葉は使われていない。 代わりに、こう書かれていた。 〈当人の意思により、夜半、沼へ入る〉 私は、鼻で笑いそうになった。 意思により? そんなものが、どこにある。 だが、読み進めるうちに、別の点が気になってきた。 名簿だ。 沼入を行った者の名が、年代順に記されている。 人数は多くない。数年に一度、あるいは十年に一度。だが、確実に、記録されている。 そして、ある時代から、書き方が変わっていた。 〈沼入之儀、記録不要トス〉 理由は、書かれていない。 その一文を境に、名簿は消えた。 私は、資料を置き、深く息を吐いた。 この町が、何かをしてきたことは、もはや疑いようがない。 だが、それと連続殺人、そして妹の死を、どう結びつけるべきなのか。 私は、町役場に向かうことにした。 この資料を、誰が、いつ、私に渡したのかを確認するためだ。 役場の資料室は、薄暗く、埃の匂いがした。 担当者は、私の顔を見るなり、少し困ったような表情を浮かべた。 「もう一度、あの資料をご覧になりたいと?」 「ええ。昨日、お借りしたものです」 担当者は、首
沼の水面から目を離したとき、私は自分がどれほど長くそこに立ち尽くしていたのか分からなかった。 空はすでに夕闇に沈みかけ、湿った風が頬を撫でている。背中に感じていたはずの視線は、いつの間にか消えていた。だが、それで安堵したかと言えば、そうではない。むしろ、何もいなくなったことの方が、強い不安を呼び起こした。 水面に映っていた顔が、まだ脳裏に残っている。 あれは、確かに私だった。 だが、同時に、私ではなかった。 帰宅してからも、違和感は消えなかった。手を洗い、服を脱ぎ、机に向かう。その一連の動作が、誰かの指示に従って行われているような感覚。自分の身体が、ほんの少し遅れてついてくる。 記者としての習慣で、私はノートを開いた。今日見聞きしたことを、言葉に変換しようとしたのだ。文字にしてしまえば、曖昧な感覚は輪郭を持ち、制御できる――そう信じてきた。 だが、ページの余白に、すでに文字があった。 走り書きのメモ。 乱れた筆圧。 強調するように引かれた二重線。 〈沼は見ている〉 〈町は忘れない〉 自分の字だった。疑いようがない。 それなのに、書いた記憶がなかった。 私は、ゆっくりとノートを閉じた。 否定することは、できなかった。 その夜、眠れなかった。目を閉じると、沼の水面が浮かび、そこに映る顔が、微妙にずれて見える。口が動く。だが、音が聞こえない。代わりに、頭の奥で、誰かが囁く。 ――確認しろ。 ――確かめろ。 何を、とは言われない。 それが、かえって恐ろしかった。 翌朝、私は決断した。 精神科医にかかる。 その判断は、理性的なもののように思えた。連続殺人、妹の死、地元取材。客観的に見れば、心身に負荷がかかっていて当然だ。自分が壊れているかもしれない、という仮説を検証するのは、記者として自然な行動だった。 町から少し離れた場所に、古い診療所があった。白い外壁はくすみ、看板の文字もところどころ剥げている。だが、妙に「長くそこにある」感じがした。 待合室には、私一人しかいなかった。 壁の時計の音が、やけに大きく響く。 診察室に通されると、医師はすでに席に着いていた。私より少し年上だろうか。穏やかな顔立ちで、眼鏡の奥の視線は、観察というより受容に近い。 「今日は、どうされましたか」 私は、準備してきた説明を口にした。眠れな